『空気を読む』の意味をスピリチュアル的に考えればサイキックに目覚める

どうも、サーファーのTakAです。
 

僕たちは普段から自然と「空気を読む」ってことをやっていますが、これって実は、けっこう高度な能力だったりします。

 

西欧社会が言語的コミュニケーションに重きを置くのに対し、日本人は、古くから、非言語的なものを大切にしてきました。

そんな背景もあって、見えないものを見る力に長けているのです。

 

ちなみに、英語で「空気を読む」は Read between the lines「行間を読む」が一番近いそうです。

日本語では「空気(ないもの)を読む」

英語では「言葉(あるもの)の間を読む」

表現にそれぞれのカルチャーが反映されていておもしろいですね。

 

この記事では、「空気を読む」をスピリチュアル的に解き明かしつつ、それに関連して、日本人の精神性や信仰心についても深掘りしていきます。

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「空気を読む」ということを理解することで、日本人とは一体、どんな性質を持った集団なのか、ということが分かってくるし、国際社会での日本人のポジショニングに関するヒントも見えてくるでしょう。

「日本人とは何者か?」ということを理解するための、かなり濃い情報を詰め込んでいるので、ブックマークやお気に入り登録をして、繰り返し読んでみてください。

『空気を読む』のスピリチュアル的な意味

日本では「空気を読めない人」がいると、いとも簡単に「場の空気」が微妙な感じになります。

もちろん、西欧圏にも「空気を読む」という風潮はありますが、日本ほどではありません。

「空気を読めない」の略称『KY』が流行語になったことがあるほど、日本では空気を読むことが重視されているわけですが、なぜこんなにも日本人は「場の空気」にこだわるんでしょうか?

そのヒントは日本人の信仰心と精神性にあるようです。

 

後述しますが、日本人というのは世界でも稀なくらいスピリチュアルな能力が高かったりします。

そして、この「空気を読む」という能力も、日本人らしいスピリチュアルな能力だと言ってもいいと思います。

と言うことで、まずは「そもそも場の空気とは何なのか?」という前提から見ていきましょう。

場の空気とは何か?

場の空気(ばのくうき)とは、日本における、その場の様子や社会的雰囲気を表す言葉。とくにコミュニケーションの場において、対人関係や社会集団の状況における情緒的関係や力関係、利害関係など言語では明示的に表現されていない(もしくは表現が忌避されている)関係性の諸要素のことなどを示す日本語の慣用句である。

Wikipedia

大雑把に言って、場の空気とは「場の雰囲気」を表す言葉のようです。

では、「場の雰囲気」とはどのようにして作られるんでしょうか?

目に見えない世界の情報

あえて言語化するなら、「場の雰囲気」というのは、

「その場にいる人が感じている情報の平均値」

と表現することができます。

例えば、真剣な会議ではピリッとした雰囲気が生まれるし、ルーティーン化した内容が希薄な会議では、ダラ~っとした雰囲気が生まれます。

また、結婚式ではハッピーな雰囲気が、葬式では神妙な雰囲気が参列者によって作られます。

人が集まれば、その場にいる人それぞれの感覚が混ざり合った一定の雰囲気が生まれ、僕たちはそこでどう振る舞えばいいかを無意識のうちに決めているのです。

「空気を読む」というのは、見えない世界の情報を読み取ること、だと表現することができますね。

見えない世界の情報・・・。

ちょっとスピリチュアルな感じがしませんか?

実はとてもスピリチュアルな世界

スピリチュアルとは目に見えない世界の法則を、スピリチュアル特有の物語に乗せて語ったものです。

広義には、僕ら人間の生命活動に関わる全ては物語だと言うことができます。

ということは、「空気を読む」というのも、至極、スピリチュアル的な行為だと言っても差し支えないですね。

特に日本人というのは、「空気を読む」という技術に長けています。

もちろん、その他のアジア諸国や欧米諸国の中にも「空気を読む」という文化はありますが、日本人の「空気を読む」という習慣は、ある種の特殊性を持っています。

それはどうやら、日本人の精神性と独特の信仰心に由来するようです。

日本人の精神性と信仰心

日本人は宗教メンタルブロックを持っているので、無宗教を主張したがりますが(これは25年ほど前に起こった新興宗教による一連の事件の影響もあるようです)、実は、自覚がないだけで、日本人というのは、かなり信仰深い国民性だったりします。

例えば、毎年、お盆になると家族で先祖を迎えるし、正月には家族揃って初詣にも行きます。また、合格祈願や安産祈願で神社に行くことも、いたって普通です。

つまり、日本では、あえて「宗教」という言葉を使う必要がないくらい、生活の中に宗教が浸透しているのです。

 

日本人の信仰心については、こちらの動画で当編集長も解説しているのでご覧になってみてください。

『スピリチュアルとは何か?日本人の信仰心と日本人の強み』

 

あなたも神様を身近に感じたりしませんか?

八百万の神を身近に感じる

日本という国は、言わずもがな、多神教国家です。

アニミズム信仰が根付いており、日本人は、万物に神が宿ると感覚を当たり前のように持っています。

お天道様、雷様、森の神様、海の神様、火の神様、田んぼの神様、トイレの神様、もうなんだって神様です。

そんな背景もあって、僕ら日本人は神々の存在を身近に感じて生活を営んできました。

 

こちらも編集長による解説動画を参照してみてください!

『一神教と日本人の八百万の神信仰の違いとは?』

  

多神教ならではですが、いろんな神様が同時に共存しているのは特筆すべき点ですね。

僕が生まれ育った家は、お座敷に仏壇がありましたけど、これって家の中にミニチュア宗教施設があるようなものです。

しかも神棚までありました。

仏教神道が何の違和感もなく共存しているわけです。

かと思えば、クリスマス間近には、仏壇の脇にクリスマスツリーを飾るなんてことも、何の抵抗もなくやってのけたりします。

おそらく、欧米人に見せたら驚くと思います。

カトリック教会とモスクの組み合わせなんか、絶対にあり得ませんからね。

日本人は、結婚式で牧師の前で愛と誓ったかと思うと、葬式では仏教式でお経付き、それに七五三、クリスマス、七夕、ハロウィン、雛祭り、バレンタインと、もう完全にカオス状態に見えます。

しかし、これは、日本という国の土壌には、どんな価値観でも分け隔てなく身近に迎える入れることができる、ある意味、寛容さを併せ持っているということの証明だと言うこともできます。

日本人というのは、そこに異質なものが紛れ込んだとしても、ほどなくして調和へと持っていける、そんな精神性を持っているようです。

このことを、僕らは「和の精神」なんて言ったりもしますね。

和の精神で空気を読む

「はじめに言葉ありき」と言われるように、精神性や国民性、文化といったもののコアには言葉があります。

「はじめに言葉ありき」とは新約聖書中の文言ですが、すべてはまず言葉によって作られるというのは、万物に共通することです。

もちろん、日本語も然りです。

とりわけ日本語の旧字体には、日本人の精神性というものが表現されてたりするわけですが、日本では戦後、多くの漢字が外部からの要因によって書き換えられたという歴史があります。

 

例えば、【私】という漢字。

私という漢字は【のぎへん+ム】でできていますが、これはこれは

稲(のぎへん)を刈り取って(ム)自分のものにする

という意味が込められているそうです。

そうやって見てみると、「私」という字からは所有分離を連想させられます。

でも実は、戦前は、「わたし」という一人称単数は、【 和多志 】という字を使って表現していました。

この「和多志」を翻訳するとどうなるか?

 

「多くの志が和す」

 

つまり、多くの志があっていいという寛容性を備えた表現になるのです。

「和多志」という漢字から、僕らは

「みんな違ってるけど、それでもいい感じでやっていこうよ」

という調和の精神を見いだすことができます。

 

これ英語とは真逆の文法構造をしています。

例えば、英語で一人称単数を表す場合、使える単語は「 I 」のみですよね?

「 I think ~ 」

「 I mean ~」

といった感じで、主語を文頭に置いて、まず最初に自分という存在を打ち出していきます。

彼らのカルチャーには、自己主張してナンボという前提があるのです。

 

一方、日本語の一人称単数は、「和多志(私)」「僕」「オレ」「自分」「わし」「おいら」「うち」等々、無数にあります。

使う状況によって主語を選択する必要があるのです。

これは、自己主張よりも周囲の状況を優先させることを意味しています。

これを西欧社会の「個の論理」に対比させて、「場の論理」と表現することができますが、要は、日本という国には、自己を表現するよりも、空気を読んで周りと調和することを優先させる、という構造があるのです。

こんな感じで、日本人といのは調和の精神に長けているわけですが、その反面、かなり迷信深かったりもします。

実は意外と迷信深い

迷信(めいしん、英: superstition)とは、人々に信じられていることのうちで、合理的な根拠を欠いているもの。一般的には社会生活をいとなむのに実害があり、道徳に反するような知識や俗信などをこう呼ぶ。

Wikipedia

日本人のほとんどは無宗教を主張したがるし、信仰心に疎いと思ってるフシがありますが、実は、根拠のない迷信を簡単に信じちゃったりします。

例えば、

・朝の蜘蛛は縁起がいい

・雷が鳴ったらヘソを隠せ

・北枕で寝てはいけない

・くしゃみが出る時は誰かが噂をしている時

・黒猫が前を横切ると縁起が悪い

・茶柱が立つと縁起がいい

・夜に爪を切ると親の死に目に会えない

・食べてからすぐに寝ると牛になる

・雛祭りが過ぎた後も雛壇を出し続けると晩婚になる

等々。

かく言う僕も、北枕で寝床を用意されると、なんとなく気分は良くないし、茶柱が立つと、心なしか嬉しい気持ちになったりします。

これらは、まだ実害は少ないので大した問題ではないですが、中には、占いや厄年なんかを信じて、それに振り回されちゃってる人も少なからずいるようです。

日本人って超スピリチュアル

そもそも、日本人って目に見えない世界の論理を簡単に信じてしまうんですよね。

TVでは毎朝のように、「今日の1位は水瓶座のあなた!」なんて放送がされてたりしますが、こうした『今日の運勢』的なコーナーは、かなり人気を集めています。

また、運気の流れについて考えたり、神社に行けばおみくじに手を伸ばしたりする人も多いですよね?

僕の出身地福岡には太宰府天満宮という学業の神様(菅原道真)が祀られた神社があるんですが、そこには毎年、受験シーズンになると受験生参拝者が急増します。

また、安産や無病息災を祈願して、各地の神社を訪れる人も多いようです。

日本人には神頼みの習慣が根付いてて、本当にスピリチュアルなことが好きなんだなぁ、と改めて思いますね。

普段、スピリチュアルに怪訝な人も、自覚がないだけで、実はすごくスピリチュアルだったりするんです。


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日本人にはスピを信じてる人が潜在的に、かなり多いですね。

なぜこんなにも、日本人はスピリチュアルなんでしょうか?

西欧の考え方と日本人の考え方

西欧人と日本人では、ものの考え方がまったく対照的だったりします。

西欧社会では、言語的(見える)コミュニケーションが重視されるのに対し、日本では非言語的(見えない)コミュニケーションが土台になっています。

 

国際的な枠組みにおいて、「日本人は自己表現が下手だ」と言われることもしばしばですが、それは、日本では相手の意図(場の意図)が可視化・顕在化されてなくても、読み取ることが求められてきた、ってことがベースにあるからです。
 

と言うことで、まずは西欧人の価値観の土台となっているものから順に見ていきましょう。

言語化と契約が大事な西欧人

西欧文化圏には、聖書(神との契約を言語化したもの)をベースとした宗教的文化背景があります。

西欧社会においては、道徳や倫理観というのは神との契約に基づいていて、言語化されることが何よりも重要であると見做されています。

逆に言えば、言語化されていないものは『ない』ことにされます。

これに関して心理学者の河合隼雄氏はこう述べています。

「キリスト教は父性原理に基づく宗教として、神との契約を守る選民をこそ救済することを明白に打ち出している」

「父性原理は切断する機能にその特性を示す」

『母性社会日本の病理』河合隼雄 講談社

父性原理とは関係性が切れている状態を前提とした人間関係を言います。

言い換えれば、言語によって関係性を構築していこうとするのが西欧文化圏なわけです。

だから、西欧人社会では言語によるコミュニケーションを非常に重視しますね。

僕が住むオーストラリアでも、エレベーターなんかの密室で欧米人と一緒になると、赤の他人であろうと、必ずといっていいほど挨拶をしたり、軽い会話をしたりします。

言語によるつながりを切断しちゃうと、そこには「耐え難い沈黙」が生まれるからです。

それ故、彼らはディスカッション(議論)もすごく上手ですね。

自己主張する代わりに、相手の意見にもちゃんと耳を傾けます。

また、論理的思考が得意で、科学というものがまず初めに西欧で発展したのも納得が行くところですね。

 

とは言え、もちろん、いいことばかりでもないようです。

プラスの側面があればマイナスの側面もあります。

これ、海外で国際結婚した日本人妻の間では「あるある」らしいんですが、彼女たちは旦那の行動に対して

「いちいち、言わないとわかってくれない!」

と嘆くことが多いみたいです。

彼らは「察する」ということが、すこぶる苦手なようですね。

この辺、日本人はめちゃめちゃ得意ですね。

目に見えない非言語的なつながりを大事にしてきたのが日本人なのです。

目に見えないつながりが大事な日本人

母性の原理は「包含する」機能によって示される。それはすべてのものを良きにつけ悪しきにつけ包み込んでしまい、そこではすべてのものが絶対的な平等性を持つ。

~中略~

日本人にとって好ましい関係は、契約による関係ではなく、「察しのよい」関係である。察するとは、言語表現以前に相手の考えや感情を読み取ることであり、それは、無意識的な一体性を前提としている。

『母性社会日本の病理』河合隼雄 講談社

 

日本ではデフォルトで「繋がっている」ことが人間関係の出発点になっています。

西欧とは真逆の構造をしていますね。

河合隼雄氏も述べているように、日本人というのは、言語的なコミュニケーションを介在させることなく、相手の感情や場の雰囲気を読み取ることが好まれます。

日本には「阿吽の呼吸」なんて表現もありますが、言葉を介せずとも分かり合う関係というのも、そんなに珍しいことではないですね。

時には友人数人で夕日を見てしんみりしつつ、物思いにふけったりってことも、全然許されることです。

西欧文化圏の人にとっては、『沈黙=ほぼ悪』と見なされるので、「みんなでしんみり」とかは、ちょっと理解し難いこととして映るかもしれません。

こうした母性社会の原理は日本のムラ社会原理とも密接に関係していて、個人が突出ると「出る杭」として打たれやすい反面、一つのまとまったビジョンを共有することで、大きな力を発揮しやすかったりします。

戦後の高度成長なんか好例ですね。

「阿吽の呼吸」レベルのチームワークで突き進むことで、大躍進できるのも納得が行くところです。

こんな感じで、日本人というのは、目に見えない雰囲気というものに敏感で、「空気を読む」ということにも長けているわけですが、これをスピリチュアル的に解釈するなら

日本人というのはサイキック能力に長けている

と言うこともできます。

そうなんです、「空気を読む」という能力は、実はサイキック能力と同じなんです。

『空気を読む』のは実はサイキック

【サイキック(psychic)】

[名・形動]霊能のある人。超能力者。また、超自然的なさま。

コトバンク

 

霊能力(psychic force)、あるいは超能力とは、現代の科学では説明不可能な未知の能力の総称である。霊(霊魂)や魂、生霊、精霊などを感覚したり、霊的な力を行使して、通常の人間ではなし得ないことを行なうとされる。単に霊能と呼ばれることがある。また、ほぼ同意語として神通力法力等が用いられることもある。能力と呼べるほど自在に行使できるほどではないが、受動的に霊的なものを感知する感性は霊感と呼ばれる。超心理学の研究対象でもある。霊能力を使う者や霊感が発達している者を、霊能者または、霊能力者と呼ぶことがある。

Wikipedia

 

要は、サイキックというのはスピリチュアル(霊的)な能力を指す言葉なようです。

「空気を読む」もスピリチュアルな能力でしたよね?

双方共に、「見えない情報を読み取る力」です。

共通点がありますね。


【スピこじ】編集長によるこれらの動画講義も参考になります。


ポイントは、何か特別な人だけが霊能力を持っている、のではなく、どんな人も日常的に使いこなしていて、日本で生まれ育った人は、その能力に長けている、ということです。

相手に見えない情報が見えている

繰り返しになりますが、日本人というのは「空気を読む」ということに長けています。

つまり、西欧人には見えない情報が見えているわけです。

そう考えると、サイキック(psychic)というのは、ヨーロッパで生まれた概念ですが、むしろ日本人の方がサイキック能力に優れているように感じます。

また、サイキック能力と一口に言っても、

・クレアボヤンス(視覚)

・クレアオーディエンス(聴覚)

・サイコメトリー(触覚)

・クレアオルファクション(嗅覚)

・クレアガステーション(味覚)

等、色々あるわけですが、日本人はこうした各々の能力をモノに込めることで、ハイクオリティなものを数多く生み出してきました。

メイドインジャパンのクオリティというのは世界的にも有名です。

なぜ、こんなにも日本人は、ハイクオリティなモノを量産することができるのでしょうか?

物を大事にしたり仕事に心を込める姿勢

万物に神が宿っているという信仰がベースにあるので、日本人はモノに魂を込めるということに対する意識が高いようです。

僕は仕事柄、包丁という道具に対しての見識はそれなりにある、という自負がありますが、日本製の包丁のクオリティというのは、他の国と比較しても群を抜いて素晴らしいです。

実際、世界中のキッチンで日本製の包丁は使われていて、僕の同僚の何人かは、日本へ旅行した際、合羽橋に行って包丁を買ってきてました。

もちろん、包丁だけでなく、自動車、電化製品やカメラなどの電子機器、楽器、料理、漫画やアニメなど、ここまで丁寧に作られているものって、世界中探してもそんなに多くはないですね。

日本人が思っている以上に、日本の文化というのは洗練されていて、世界中でメイドインジャパンは使用されています。

世界の豊かさに貢献しているわけです。

にも関わらず、バブル崩壊以降、日本人が不必要に自信をなくしていることは残念に思いますね。

「もっと誇りと自信を持ってもいいんじゃないか!」

海外に出て、僕はますますそう感じるようになりました。

日本人らしさにもっと誇りを持っていい

ご存知の方もいるともいますが、先日(2019年12月4日)、アフガニスタンでNGO「ペシャワール会」の日本人医師・中村哲さんが何者かの銃撃によって亡くなりました。

現地では、大統領が棺を担ぐほどの大々的な追悼式も執り行われたようです。

僕が彼を知ったのは高校生の時ですが、彼は現地の人達と一緒に、何十年も用水路を作り続けてきた人です。

彼の死に際して、多くのアフガニスタン人が悲しみに暮れましたが、彼のような人がいたことを、僕は日本人として誇りに思います。

日本では大々的に報道されることは少ないですが、中村哲さんのように世界中で活躍し、感謝されている日本人は想像以上にたくさんいます。

このことに僕らはもっと誇りと自信を持つべきだと思いますね。

と言うか、もともと、日本人というのは、日本人らしさというものに誇りを持っていました。

それが、先述したように、外部的な要因によって、漢字を書き換えられたりしながら日本人の精神性というのは骨抜きにされてきたのです。

バブル崩壊から現在に至るまで『失われた20年』なんて言われてますが、日本という国の国際的競争力が低迷している今だからこそ、僕ら日本人は自信を失うのではなく、むしろかつての誇りを取り戻す必要があるんじゃないかと強く感じています。

巷では「国際人」とやらで、国際的に順応している風に見えながらも、実は根無し草のまま、自分が立っている基盤が心許ない人は、案外、たくさんいます。

「日の丸を背負って」なんて息巻く必要はありませんが、少なくとも、日本人の精神性というものを理解して、日本人としての自覚を持つことが、国際社会と対等に渡り合っていくための鍵になるんじゃないでしょうか?


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まとめ

と言うことで、最後にこの記事のポイントをまとめておきますね。

・「場の空気」とは、その場にいる人が感じている情報の平均値

・「空気を読む」能力はスピリチュアルなスキル

・日本人は空気を読むのが得意

・実は、日本人は信仰深くてスピリチュアル

・日本では「個」よりも「場」が優先される

・西欧社会の言語的コミュニケーションに対して、日本社会では非言語的コミュニケーションが重視される

・日本は非言語的繋がり重視の母性社会

・「空気を読む」能力はサイキックな能力に近い

・日本人はモノに魂を込めるのが得意

・日本人は、自分たちの精神性に自信と誇りを持っていい

・日本人としての自覚が国際社会で活躍するためのキーポイントになる

今回の記事が、あなたの日本人としての誇りと自信を喚起するキッカケになったなら、僕としても嬉しく思います。



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